BOURBON STREET

Step 43   1990年代のトラッド・ジャズ

柳澤安信 (ODJC会員)

■ はじめに

 この冊子は2003年(平成15年)に、1990年代のトラッド・ジャズ界を回顧し、まとめたものである。当時仲間内に配布し、ODJC会員の皆様にもご希望の方にプリントした記憶がある。故末廣光夫氏発行の「HOT JAZZ LINE」で取り上げていただき、お褒めの言葉をいただいた。時代が経過すると、当時健在だったミュージシャンが亡くなったりして、内容が古くなるものだが、今読み返しても大勢に誤りはないように思われる。これに続く「2000年代のトラッド・ジャズ」もまとめてみたいものである。 (2020年4月)


 写真0 1990年代のトラッド・ジャズ

 21世紀も早2年が過ぎ、1990年代も過去の時代になりつつあるが、このあたりで90年代のトラディショナル・ジャズを振り返ってみたいと思う。
 1990年代を一口で言うと、1920年代から30年代の初期のジャズを創造してきた巨人たちが高齢化し、引退もしくは死亡するなかで、彼らを継承する第二世代の中堅ミュージシャンが活躍し、更にこれからのジャズ・シーンを担う期待の新人も現れて、新旧のミュージシャンが完 全に世代交代した時代ということができる。
 次のような分類で、もう少し詳しく辿ってみよう。

■ニューオリンズ・ジャズ・シーン
■ニューヨークのコンドン・ジャズ
■ローソン・ハガート・ジャズ・バンド
■西海岸のジャズ
■ベテラン・ジャズ・メンの活動
■ビックス・バイダーベックに拘わるイベント
■カンザス・シティ・ジャズ、ニューヨークの黒人ジャズ
■白人系スイング・ジャズ
■まとめ
 付録 (1)1990年代のトラッド・ジャズCD25選
 付録 (2)2000年代トラッド系ミュージシャン一覧
 ジャケットの写真はクリックすると拡大できます

■ ニューオリンズ・ジャズ・シーン

 古老たちが次々に死んで行くなかで、1990年代の初め頃まではウィリー・ハンフリー(cl)やパーシー・ハンフリー(tp)がまだプリザベーション・ホールで演奏していたが、彼らが亡くなると(ウィリーが94年6月、パーシーが95年7月)急速に世代交代進んだ。
 プリザベーション・ホール・ジャズ・バンドはウェンデル・ブルーニアス(Wendell Brunious,tp)やマイケル・ホワイト(Dr. Michael White,cl)が主要メンバーになり、最近のCDではアラン・ジャフェの息子が父親と同じチューバで参加するなど、若返りが図られている。「PRESERVATION HALL JAZZ BAND :In The Sweet Bye & Bye」(Sony SK62363)[写真1]は、1994年と95年の演奏で、メンバーも大分昔と様変わりしている。なかにウィントン・マルサリスの父親がピアノを弾いている曲も入っている。
 これからのニューオリンズのジャズ界はマイケル・ホワイトがリーダーシップを取っていくのではなかろうか。「DR.MICHAEL WHITE :A Song For George Lewis」(Basin Street BSR0501-2)[写真2]は、2000年吹込みの彼のリーダー・アルバムで、最新の地元のニューオリンズ・ジャズを楽しむことができる。
 地元にはニューオリンズ・ジャズを継承する黒人ミュージシャンも結構いるようだが、世界のファンに知れ渡るようになる若者はほとんどいない。
 むしろニューオリンズ・ジャズは、西海岸の白人社会や日本を含めた海外のミュージシャンに引継がれている感が強い。
 そんななかで、地元出身のウイントン・マルサリス(tp)がジェリー・ロール・モートンの音楽を再演した「Mr. Jelly Lord」(SME SRCS 2108,99年録音)[写真3]を発表、ニコラス・ペイトン(tp)もルイ・アームストロングに捧げた「Dear Louis」(Verve UCCV 1010,2000年録音)[写真4]をリリースしたことは特筆に価する。この二作品は普段はモダン・ジャズ界で活躍する二人が、ニューオリンズ・ジャズに回帰した異色作で、内容も素晴らしい。これからも古典ジャズへの取り組みを期待したいが、更に若手の黒人ミュージシャンの出現も待たれるところである。

 

写真1 PRESERVATION HALL JAZZ BAND:In The Sweet Bye & Bye(Sony SK62363)
写真2 DR.MICHAEL WHITE :A Song For George Lewis(Basin Street BSR0501-2)

 

写真3 WYNTON MARSALIS :Mr. Jelly Lord(SME SRCS 2108)
写真4 NICHOLAS PAYTON :Dear Louis(Verve UCCV 1010)

■ ニューヨークのコンドン・ジャズ

 1986年6月、ニューヨークのタウンホールで開かれたJVCジャズ・フェスティバルに、「シカゴ・ジャズ・サミット」という企画があった。このステージは、ヴィンス・ジョルダーノのナイト・フォークス(Vince Giordano and The Nighthawks)という若手のディキシー・バンドをベースに、往年のスター・プレイアーが次々にフューチャーされて熱演するという歴史に残るコンサートになった。その模様は「Chicago Jazz Summit」(Atlantic 81844-1)[写真5]で聴くことができる。
 おそらくこのステージが所謂エディ・コンドン一家の残党が終結した最後のイベントではなかろうか。その時出演したワイルド・ビル・デヴィソン(co)が89年11月、ジミー・マクパートランド(co)、エディー・ミラー(ts)が91年の3月と4月、アート・ホーディス(p)は93年3月、マックス・カミンスキー(tp)は94年9月に亡くなった。出てはいないがバド・フリーマン(ts)も91年3月に死亡している。
 大御所エディ・コンドン本人の死亡(1973年8月)後も彼の友人達によって演奏されてきたコンドン・ジャズも、90年代半ばにきて、完全にその後継者に引き継がれることになった。コンドン・ジャズの後継者にはレッド・バラバン(Red Balaban,g)、エド・ポルサー(Ed Polcer,tp)、ジェームス・ダポグニー(James Dapogny,p)らがおり、ワイルド・ビルの後継者では、トム・サンダース(Tom Saunders,co)が有名だ。彼らは晩年のコンドンと行動を共にし、コンドンの死後はニューヨークのミッドタウンに「Eddie Condons」を開いて、トラッド・ジャズの啓蒙に努めたコンドン狂である。
 ほかにも中堅、若手の後継者に、ジョン・エリック・ケルソー(Jon-Erik Kellso,tp)、ビル・オーレッド(Bill Allred,tb)、ボブ・ヘヴンズ(Bob Havens,tb)、ボビー・ゴードン(Bobby Gordon,cl)、チャック・ヘッジス(Chuck Hedges,cl)、ジョニー・ヴァロー(Johnny Varro,p)、マーク・シェーン(Mark Shane,p)、レイ・シャーマン(Ray Sherman,p)、ヴィンス・ジョルダーノ(b,bass sax)、ジョー・アショーネ(Joe Ascione,d)などたくさんおり、今後も彼らの活躍が十分期待できる。
 90年代のコンドン後継者たちの作品では、エド・ポルサーの「Jammin’ ala Condon」(Jazzology JCD 238,94年録音)[写真6]、トム・サンダースの「Call of the Wild : Tom Saunders and the Wild Bill Davison Legacy」(Arbors ARCD 19146,95年録音)[写真7]、ピィ・ウィ・ラッセルの香りが漂うボビー・ゴードンの「The Bobby Gordon Quartet」(Arbors ARCD 19112,92年録音)[写真8]などが名盤だと思う。

 

写真5 CHICAGO JAZZ SUMMIT(Atlantic 81844-1)
写真6 ED POLCER HIS ALL STARS :Jammin’ ala Condon(Jazzology JCD 238)

 

写真7 TOM SAUNDERS and the Wild Bill Davison Legacy(Arbors ARCD 19146)
写真8 THE BOBBY GORDON QUARTET :Don’t Let It End…(Arbors ARCD 19112)

■ ローソン・ハガート・ジャズ・バンド

 ボブ・クロスビー楽団のメンバーで、かつてローソン・ハガート・ジャズ・バンドでも共に仕事をしたヤンク・ローソン(tp)とボブ・ハガート(b)は、1970年代には超一流どころを集めたワールド・グレイテスト・ジャズ・バンドを率いて活躍した。メンバーの高齢化に伴い、70年代末でワールド・グレイテスト・ジャズ・バンドを解散すると、彼らは80年代にローソン・ハガート・ジャズ・バンドを復活、その活動は90年代初めまで続いた。メンバーもジョージ・マッソー(George Masso,tb)、ケニー・ダヴァーン(Kenny Davern,cl)、ジョン・バンチ(John Bunch,p)、バッキー・ピザレリ(Bucky Pizzarelli,g)、ジェイク・ハナ(Jake Hanna,d)といった中堅どころに若返り、リーダーの長老二人が加わって、正に円熟したディキシーを聴かせてくれた。
 そのヤンク・ローソンが95年2月に死亡、長年のコンビが崩れたボブ・ハガートだったが、彼はその後も健在で、中堅、若手のミュージシャンの中に飛び込んで仕事を続けた。日本には95年5月に、ヤンク・ローソンに代わって急遽旧友ジィーク・ザーチィ(Zeke Zarchy,tp)を入れたワールド・グレイテスト・ジャズ・バンドを再編してやってきた。メンバーにエド・ポルサー、ジョージ・マッソー、ジョン・バンチ、ブッチー・マイルス(Butch Miles,d)らがいた。
 しかし元気だったボブ・ハガートも98年12月に死亡、残念ながらワールド・グレイテスト・ジャズ・バンド、ローソン・ハガート・ジャズ・バンドは消滅した形となった。ローソン・ハガート・ジャズ・バンドの最後の作品は「The Legendary Lawson?Haggart Jazz Band with A Southern Accent」(Jazzology JCD 203,91年録音)[写真9]ではなかろうか。
 彼らの出身母体ボブ・クロスビー楽団は、現在ピアニストのエド・メッツ・シニア(Ed Mez Sr.)が引き継ぎ、演奏活動をしているようだ。

写真9 THE LEGENDARY LAWSON?HAGGART JAZZ BAND(Jazzology JCD 203)

■ 西海岸のジャズ

 カリフォルニアは昔からディキシーランド・ジャズが盛んなところで、かつてはルウ・ワターズ、ボブ・スコビー、ターク・マーフィが活躍し、ファイアー・ハウス・ファイブ・プラス・ツウが人気を得た。当時のメンバーで90年代も演奏しているミュージシャンに、トム・シャープスティーン(Tom Sharpsteen,cl)、ジョージ・プロバート(George Probert,cl,ss)、コンラド・ジャニス(Conrad Janis,tb)らがいる。それからボブ・グリーン(Bob Green,p)、ブッチー・トンプソン(Butch Thompson,p,cl)、ハル・スミス(Hal Smith,d)らベテランも健在だ。最近の若手ではドラムス、バンジョー、トランペットなど楽器なら何でもこなすクリント・ベーカー(Clint Baker)がめきめき人気を上げている。彼は現在ウィルバー・デ・パリス(tb)のバンド名だった「New New Orleans Jazz Band」という名前をもらって活動しているようだ。
 トム・シャープスティーンの私家盤「Tom Sharpsteen and His Orlandos」(no number,94年録音)[写真10]は、クリント・ベーカーがドラムスで参加、カリフォルニア・サウンドのニューオリンズ・ジャズが楽しめる。
 ほかにも当地にはハッピー・ディキシーを演奏する「South Frisco Jazz band」、「Golden Eagle Jazz Band」などアマチュア、セミプロ、プロのディキシー・バンドやバンジョー・バンドが数限りなく存在する。ミュージシャンはほとんど白人で、演奏はニューオリンズ・スタイル、大阪の「ニュオリーズ・ラスカルズ」と交流が深いプレイアーが多い。
 2002年の神戸ジャズ・ストリートに初来日したエヴァン・クリストファー(Evan Christopher,cl)は、伝統的なこくのあるクラリネットを聴かせる期待のミュージシャンで、関西を中心に人気が高まっている。
 ハル・スミスもトラッド系の味のあるドラマーだ。「HAL SMITH’S CALIFORNIA SWING CATS : Swing, Brother, Swing」(Jazzology JCD 255,95年録音)[写真11]は、彼がリーダーのスイング・コンボで、ティム・ロウーリン(Tim Laughlin)のクラリネットとレベッカ・キルゴア(Rebecca Kilgore)のスインギーな唄をフューチュアーした名盤だ。
 西海岸では毎年二つの大きなトラッド・ジャズ・フェスティバルが開催されている。一つは5月にサクラメントで行われる「Sacrament Jazz Jubilee」(02年が第29回)、もう一つは9月にロス・アンジェルスで行われる「Los Angeles Sweet & Hot Music Festival」(Classic Jazz Festival時代から数えると、02年が第19回)である。この二つのイベントには全米からトラッド系の有名バンドやミュージシャンが大集合し、夢のようなステージが展開される。これに参加すると、現在のトラッド・ジャズ界の状況や今後の動向など、生きた情報をまとめて得ることができる。

 

写真10 TOM SHARPSTEEN and His Orlandos」(Private no number)
写真11 HAL SMITH’S CALIFORNIA SWING CATS(Jazzology JCD 255)

■ ベテラン・ジャズメンの活動

 ここで1990年代も精力的に演奏活動を行ったベテラン・ミュージシャンを、ラルフ・サットン(p)、ボブ・ウィルバー(cl,ss)、マーティ・グロス(g)、ディック・ハイマン(p)の四人に絞って追ってみよう。
 ラルフ・サットンは90年代の初め頃心臓病で一時体調を崩した時期があったが、その後健康を回復し、後年になるほどタッチが力強くなり、他のピアニストと一味もふた味も違うストライド・ピアノを聴かせてくれた。国内外のイベントにも引っ張り凧のように見え、録音もたくさん残している。日本には1984年に初来日、その後01年までの17年間ほとんど毎年来日しているが、神戸がほとんどで、東京での聴く機会は少なかった。
 大変温厚で紳士だったサットンも2001年12月、心臓麻痺で帰らぬ人となった。
 「SWEET SUE : Ralph Sutton & Friends」(Nagel Heyer CD057)[写真12]は99年ハンブルグでのライブだが、晩年の演奏とは思えない若々しい演奏だ。ディック・ハイマンとのデュオ・アルバム「DICK HYMAN/RALPH SUTTON」(Concord CCD 4603,93年録音)[写真13]も名盤である。 ボブ・ウィルバーは70年代にワールド・グレイテスト・ジャズ・バンドに参加する傍ら、ケニー・ダヴァーン(cl)と組んだ「ソプラノ・サミット」で活躍した。ソプラノ・サミットは5年ほどの活動だったが、80年代後半になって再会ステージや再会セッションを持つ機会があり、それは現在も続いているようだ。その時は「サミット・リユニオン」と銘打って演奏している。「KENNY DAVERN and BOB WILBER : SUMMIT REUNION」(Jazzology JCD 328)[写真14]は99年の録音で、アル・ジョルスンのヒット曲を集めたリユニオンの最新アルバムである。彼はまた夫人で歌手のパグ・ホートン(Joanne “Pug” Horton)を加えて、シドニー・ベシェのトリビュート・バンド「Bob Wilber and The Bechet Legacy」を編成してレコーディングしたり、臨時のスイング・オーケストラを指揮することもある。1990年にはビックス・バイダーベックの伝記映画の音楽も担当している。
 サミットの相棒ケニー・ダヴァーンも精力的な活動をしたミュージシャンで、アヴァース・レコードにリーダー・アルバムを数枚作り、「KENNY DAVERN and THE RHYTHM MEN」(Arbors ARCD 19147,95年録音)[写真15]は、スインギーな彼の名演集である。
 ソプラノ・サミットのリズム・セクションの一員だったギターのマーティ・グロスも、最も活躍したベテラン・ミュージシャンの一人だ。彼は電気ギターを絶対に使わず、年代物のギブソンを愛用、バーナード・アディソン風のシャッフル・リズムをきざみ、ヴォーカルも得意とする。コルネットのピーター・エクランド(Peter Ecklund)との双頭バンド「オーファン・ニュースボーイズ」(The Orphan Newsboys)は、ボビー・ゴードン(cl)とグレグ・コーエン(Greg Kohen,b)を加えた四人編成のユニークなコンボで、80年代後半から90年代前半にかけて大活躍した。「LAUGHING AT LIFE : THE ORPHAN NEWSBOYS」(Stomp Off CD1214,90年録音)[写真16]はこのバンドの代表的一枚である。
 彼も日本には何度も来ているが、最近では2000年9月、宇都宮の栃木県立美術館で開催された父親で画家の「ジョージ・グロス展」にホストとして来日、展示室前でソロ・ギターを聴かせてくれた。90年代も録音数の多いプレイアーである。
 ピアノ兼作編曲のディック・ハイマンは、1985年からニューヨークで毎夏2週間連続のジャズ・コンサート「Jazz In July」を主宰している。これは彼のライフワークになっているとのことだ。この催しは単なる夏祭り的な興行ではなく、毎回コンセプトを立案し、それに基づいた曲構成と出演者が決まる、いかにもハイマンらしい格調の高いコンサートだという。そのハイマンの日本公演は96年10月六本木のサントリー・ホールで開催された。メンバーはフリップ・フィリップス(ts,2001年8月亡)をメイン・ゲストに、ピーター・アップルヤード(Peter Appleyard,vib)、ディレク・スミス(Derek Smith,p)、ケン・ペプロウスキー(Ken Peplowski,cl,ts)、マイケル・ムーア(Michael Moore,b)、ハワード・オールデン(Howard Alden,g)、ブッチー・マイルス(d)という豪華な顔ぶれで、スインギーで心温まる素晴らしいコンサートになった。このライブのレコード化も望まれるが、この公演前の2月にスタジオ録音したCDに、「DICK HYMAN : Swing Is Here」(Reference RR 72CD)[写真17]がある。メンバーが若干異なるが、スタンダード・ナンバーばかりをハイマン好みのリラックスしたアレンジで演奏している。
 ハイマンはレコーディング活動も活発に行っているが、映画音楽も得意とし、特にウディ・アレン監督の映画は彼によるものが多く、01年公開された「ギター弾きの恋」も楽しい映画だった。サウンド・トラック盤が「Sweet and Lowdown」(Sony Classical SK89019,c99年録音)[写真18]として出ている。ギターはハワード・オールデンをメインに、バックをベテラン、バッキー・ピザレリがつけている。

  

写真12 RALPH SUTTON & FRIENDS :Sweet Sue(Nagel Heyer CD057)
写真13 DICK HYMAN/RALPH SUTTON :Concord Duo Series No.6(Concord CCD 4603)
写真14 KENNY DAVERN and BOB WILBER :Summit Reunion(Jazzology JCD 328)

 

写真15 TKENNY DAVERN and THE RHYTHM MEN(Arbors ARCD 19147)
写真16 THE ORPHAN NEWSBOYS :Laughing at Life(Stomp Off CD1214)

 

写真17 DICK HYMAN :Swing Is Here(Reference RR 72CD)
写真18 SWEET AND LOWDOWN :Music from the Motion Picture(Sony Classical SK89019)

■ ビックス・バイダーベックに拘わるイベント

 ビックスの出身地アイオワ州ダヴェンポートでは、毎年夏に町をあげての「ビックス祭り」(Bix Beiderbecke Memorial Jazz Festival)が開催されている。このイベントにはビックスとジーン・ゴールドケット楽団でいっしょだったトロンボーンのスピーグル・ウィルコックス(Spiegle Willcox)がゲストとして招かれていた。気さくで皆から愛されていた彼も、1999年の第28回フェスティバルに出演直後の8月に96歳で亡くなり、これでビックスと演奏したことのある現役ミュージシャンは、全くいなくなった。
 ダヴェンポートでは90年にビックスの生涯を忠実に描いた伝記映画「BIX」(プピ・アヴァティ監督、イタリア映画)のロケがあった。日本では92年に「ジャズ・ミー・ブルース」の邦題で公開され、サウンド・トラックのCD「BIX An interpretation of a legend」(BMG Victor BVCJ 118,90年録音)[写真19]も発売になった。音楽はボブ・ウィルバーが担当、音のビックス役はサンズ・オブ・ビックス(The Sons Of Bix)のコルネット奏者、トム・プレッチャー(Tom Pletcher)、ほかにケニー・ダヴァーン(cl)、ヴィンス・ジョルダーノ(bass sax)、アンディ・ステイン(Andy Stein,violin)らが参加している。
 1993年はビックス生誕90年に当たり、トランペットのランディ・サンキ(Randy Sandke)がニューヨーク・オールスターズというニューヨークの一流ミュージシャンを集めたバンドを編成、ビックスゆかりの曲をレパートリーに演奏活動を行った。ヨーロッパ・ツアーも行い、ハンブルグでのライブが「The Bix Beiderbecke Era : New York All Stars」(Nagel Heyer CD002,再発盤CD3002)[写真20]として出ている。日本ツアーが行われなかったのは本当に残念だった。今年2003年はビックス生誕100年の年、ダヴェンポートを始め、世界各地で彼を称える企画が計画されている。 ビックスのSPレコード・コレクターとしても知られるランディ・サンキは、97年のJVCジャズ・フェスティバル・ニューヨークで、「ルイとビックス再発見!」(RE-DISCOVERED LOUIS AND BIX)というステージを企画した。このステージは、ルイ・アームストロングとビックス・バイダーベックが吹込んだレコードで、いまだに未発売になっている曲を演奏するというユニークかつ前代未聞の演奏会で、ルイのステージではニコラス・ペイトンも加わった。ビックスのセットでは、今まで未発表のビックスが作曲した曲2曲(Betcha I GetchaとCloudy)も披露された。このステージのライブ盤はまだ出ていないが、2年後の99年に当時のメンバーを再度集めてスタジオ録音した「THE RE-DISCOVERED LOUIS AND BIX : Randy Sandke and The New York Allstars」(Nagel Heyer CD058)[写真21]が発売になっている。この作品も90年代のトラッド・ジャズ史に残る1枚である。

  

写真19 BIX An interpretation of a legend(BMG Victor BVCJ 118)
写真20 THE BIX BEIDERBECKE ERA New York All Stars」(Nagel Heyer CD002)
写真21 THE RE-DISCOVERED LOUIS AND BIX Randy Sandke(Nagel Heyer CD058)

■ カンザス・シティ・ジャズ、ニューヨークの黒人ジャズ

 1996年秋、1930年代カンザス・シティ・ジャズが華やかなりし頃の黒人ジャズ界を舞台にした映画「KANSAS CITY」(ロバート・アルトマン監督、ハル・ウィルナー音楽、1995年製作)が封切られた。演奏場面は俳優ではなく、本物の若手黒人ミュージシャンが登場、パワー溢れるカンザス・スイングを演奏した。メンバーにジョシュア・レッドマン(Joshua Redman,ts)、ジェームス・カーター(James Carter,ts)、デヴィッド・ニューマン(David Newman,as)、サイラス・チェスナット(Cyrus Chestnut,p)など21世紀のモダン・ジャズを担うホープが顔をそろえていた。ベテランではロン・カーター(b)、ニコラス・ペイトンも出ていた。サウンド・トラックを「KANSAS CITY」(Verve POCJ 1321,95年録音)[写真22]で聴くことができる。
 カンザス風スイングといえば、「ステイツメン・オブ・ジャズ」(Statemen of Jazz)という栄光のバンドがある。このバンドは全米ジャズ協会同盟(American Federation of Jazz Societies)が1994年に、「ジャズの新しい分野を広げることに、生涯を通じて著しい活躍をした65歳以上のミュージシャンに名誉を与える」ために組織されたツアー・グループで、高齢のミュージシャンにもできる限り演奏の機会を与え、ジャズという文化の振興に一役買ってもらおうというものである。「STATESMEN OF JAZZ」(Sony SRCS 8433,94年録音)[写真23]は、ツアー開始にあたって、グループのPRを目的に、ミルトン・ヒントン(b,2000年12月亡)の音楽ディレクターのもとに録音された。
 日本へのツアーは1997年9月に行われ、当時95歳のベニー・ウォーターズ(as,98年8月亡)、ハリー・スウィーツ・エディソン(tp,99年7月亡)、アル・グレイ(tb,2000年3月亡)、ルイ・ベルソン(d)らによって、カンザス風スイング・ジャズが演奏された。ベニー・ウォーターズはほとんど目が見えない様子だったが、自分のソロ・パートがくると椅子から立ちあがって強力に吹きまくり、聴衆の大喝采を浴びていた。
 ステイツメン・オブ・ジャズは翌年の98年10月にも来日した。この時はベニー・ウォーターズの追悼ツアーになってしまった。しかしメンバーにはクラーク・テリー(tp)とボブ・ウィルバー(cl,ss)が加わっていた。
 ニューヨークのリンカーンセンターに1986年、ジャズをアメリカの文化として維持して行く目的で、「ジャズ・アト・リンカーンセンター」(Jazz at Lincoln Center)が設立された。音楽監督にウィントン・マルサリスが任命され、彼はコンサート、レクチャー、レコーディング、ラジオ放送、海外ツアー、大人および子供向けの教育プログラムなどのプロデュースを行った。88年には活動のためのハウス・ビッグ・バンド、リンカーンセンター・ジャズ・オーケストラを結成、マルサリスの指揮のもと、歴史に残る名曲の再演と新たに作られた新曲を演奏のレパートリーに、活動を行っている。特にデューク・エリントンの音楽を重要なレパートリーとしており、毎年センターで行われるエリントン作品の演奏会は、ニューヨーク市の文化的ハイライトになっているという。
 「JAZZ AT LONCOLN CENTER : They came to swing」(Sony CK66379)[写真24]は、ハウス・オーケストラの92年から94年の活動を記録したもので、エリントン・ナンバーを含めた高質のビッグ・バンド・ジャズを聴くことができる。
 リンカーンセンター・ジャズ・オーケストラの日本ツアーは98年7月、横浜みなとみらいホールで、「Jazz at Lincoln Center in YOKOHAMA」と題して行われた。プログラムは「コンサート」と「エデュケーション」に分かれた6日間に及ぶもので、中学生から社会人までのレクチャーはもちろん、「マルサリスと遊ぼう」という子供のためのリズム・ワークショップもあった。オーケストラのメンバーはほとんどが黒人のミュージシャンだったが、アルト・サックスにテッド・ナッシュ(Ted Nash)、バリトンにジョー・テンパリー(Joe Temperley)が入っていた。オリジナルなデューク・エリントン楽団、カウント・ベイシー楽団がなくなってしまった現在、この楽団は黒人編成のオーケストラとしても貴重な存在で、02年秋には久々の来日を果たしている。
 何度も来日して我々には馴染みの深いベニー・カーター(as,tp)は、ついに03年7月12日帰らぬ人となった。95歳だった。彼は02年8月末、ロスで開催されたスイート・アンド・ホット・ミュージック・フェスティバルのセレモニーに主賓として招かれ、元気な姿を見せていたという。 大分話が戻って95年2月、彼は栄誉あるハリウッドの「ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイム」(Hollywood Walk of Fame)を受賞した。その年の5月、そのお祝い興行となった「JAZZ GIANTS SPECIAL ’95」が彼の11回目の来日となり、ベニー・カーター・アンド・ヒズ・フレンズというステージで健在ぶりを示した。サイドメンはプラス・ジョンソン(ts)、ハリー・エディソン(tp)、フィル・ウッズ(as)だった。このコンサートが日本での最後のステージになった。
 ライオネル・ハンプトン(vib)は02年8月、94歳で亡くなった。彼は99年11月、90歳の誕生祝賀会で演奏し、年齢を感じさせない迫力あるアルバム「LIONEL HAMPTON 90th Birthday Celebration」(Sound Hills SSCD-8105)を作ったが、その後15年愛用したビブラフォーンをワシントンのスミソニアン博物館に寄贈、お返しとして新しいものと交換したと朝日新聞(2001年2月1日)が報じていた。

  

写真22 KANSAS CITY A Robert Altman Film(Verve POCJ 1321)
写真23 STATESMEN OF JAZZ(Sony SRCS 8433)
写真24 JAZZ AT LONCOLN CENTER :They came to swing(Sony CK66379)

■ 白人系スイング・ジャズ

 1991年にクラリネットのピーナッツ・ハッコーがカルテットを率いて来日した。ルー・スタイン(p)、アーヴェル・ショー(b)、ブッチー・マイルス(d)という素晴らしいメンバーだったにもかかわらず、会場のお客さんはまばらだったという。彼はその後も現役で活動していたが、03年6月肺炎が原因で死去した。85歳だった。
 アーティー・ショウ(93歳)も当の昔に演奏は止めてしまっているが、彼は1996年7月、ダヴェンポートで行われた全米ジャズ・ソサエティ連盟第11回総会で、「Jazz From Bix and Beyond」というジャズ・セミナーの講師を務めた。その時は杖をついて歩き、ビックスの墓前演奏にも顔を出していたが、その後はどうしているか、情報は得ていない。
 ギターのジョージ・ヴァン・エプス(George Van Eps)は1998年11月惜しくも亡くなったが、晩年まで自分のスタイルを守り、上品で暖かな独特のサウンドを醸し出していた。94年9月ロスのフェスティバルで、初めて彼の7弦ギターを聴く機会に恵まれた。クラシックの指揮者のような紳士で、快くサインに応じてくれたことが印象に残っている。「HOWAED ALDEN + GEORGE VAN EPS : 13 Strings」(Concord CCD 4464,91年録音)[写真25]はハワード・オールデンとの競演盤で、地味ながら味のある玄人好みのアルバムである。
 クラリネットのエーブ・モストと弟のサム・モスト(ts)は健在だったが、エーブは02年10月に亡くなった。彼らは2000年10月エイブ・モスト・スイング・オーケストラを率いて来日、「トリビュート・トウ・ベニー・グッドマン・オーケストラ」と題したコンサート・ツアーを行っている。 フロリダ州クリアーウォーター(Clearwater)のアヴァース・レコードは、毎年3月に、その年に80歳になる著名なミュージシャンを囲んで、「The March of Jazz」と銘打ったパーティを企画している。01年のメイン・ゲストはルビー・ブラフ(co)、02年はラルフ・サットンの予定だったが、それを待たずに亡くなってしまった。今までにフィリップ・フィリップス、ボブ・ハガート、ジェリー・ジェローム(ts,2001年11月亡)、ジョー・ブシュキン(p)、ボブ・ウィルバーらがスペシャル・ゲストを務めている。
 なお日本ではこのパーティに、大阪の「ヨウ・木村トリオ」(Yo Kimura Trio)が招かれて、毎年(00年から4年連続)演奏している。02年(2002年3月)の現地情報によると、ジョー・ワイルダー(tp)やジャック・レスバーグ(b)が元気だったのに比べ、若干年下のルビー・ブラフが車椅子での出演だったという。そのルビー・ブラフは残念なことに03年2月に死亡した。今年はバッキー・ピザレリとジャック・レスバーグ(b)が主賓だった。
 スイング系ジャズの祭典では「コンコード・ジャズ・フェスティバル」が有名だ。1970年代から80年代にその主役であったスコット・ハミルトン(ts)は、90年代の初め頃までは自己のコンボを率いて出演していったが、最近は後輩に出番を譲り、マイペースで仕事をしているようだ。日本公演では、95年のケン・ペプロウスキーらと一緒に出演した「オールスターズ」というステージ以降は出ていない。しかし彼は日本には毎年(00年から3年連続)やって来ていて、エディ・ヒギンズ(Eddie Higgins,p)のトリオに加わって演奏している。02年は2度も来日し、2度目の10月には日本のトリオをバックに演奏した。そして今年は6月にエディ・ヒギンズ・トリオ、11月のコンコード・ジャズ・フェスティバルではハリー・アレンと競演の予定とのことで、これは大いに楽しみだ。
 なお95年はコンコード・レコード創設者のカール・E・ジェファーソンが3月に他界、会社は後任のグレン・バロス社長に引き継がれ、社の方針も変化してきている。
 スコット・ハミルトンに代わって実力、人気が認められるようになったのは、ケン・ペプロウスキーとハリー・アレン(Harry Allen,ts)であろう。 ケン・ペプロウスキーは1990年代、いや現在を含めて今一番のクラリネット奏者の一人である。98年のコンコードでは、全盛期のベニー・グッドマン楽団と同一編成の「グレイト・スイング・オーケストラ」を指揮し、かの有名な「カーネギー・ホール・コンサート」を、五反田の「簡易保険ホール」で再現してみせた。「KEN PEPLOWSKI : LAST SWING OF THE CENTURY」(Concord CCD 4864-2)[写真26]はそのライブ盤である。2000年のステージでは、コンテ・カンドリ(tp,2001年12月亡)をフューチュアーした「スインギング・オールセターズ」を指揮した。
 スタン・ゲッツ、ズート・シムスの流れを汲み、日本のファンにも人気が急上昇したハリー・アレンは、97年のフェスティバルで自己のカルテットを率いて出演した。デイヴ・マッケンナが病気のため、ピアノはロス・トンプキンスだった。彼はその後2000年6月の「ジャズ・エリート・2000」で再来日、翌年の01年4月にはピアノの岸ミツアキ・トリオに加わって、日本ツアーを行っている。
 ハリー・アレンのCDはたくさん出ているが、「a night at birdland : HARRY AllEN QUINTET」(Nagel Heyer CD007,010,93年録音)[写真27]は、彼の27才時の録音で、ハンブルグのジャズ・クラブ「バードランド」での白熱したライブ演奏が楽しめる。ジャケットは40年前アート・ブレイキーがニューヨークのバードランドに、クリフォード・ブラウンをフューチュアーしたクインテットを率いて出演した、あのブルーノート盤をイメージしている。
 コルネットのウォーレン・バッシェの弟、アレン・バッシェ(Allan Vache)もベニー・グッドマン系の素晴らしいクラリネット奏者である。彼はニュージャージー、テキサスと地方で活動しているためか、わが国では馴染みが薄いが、アトランタ・ジャズ・パーティなど各地で行われるフェスティバルにレギュラー出演し、レコーディングも精力的に行っている。「JAZZ IM AMERIKA HAUS : Allen Vache Swingtet」(Nagelheyer CD013,94年録音)[写真28]は兄弟で出演したハンブルグのコンサート・ライブで、新鮮なスイング・ジャズが楽しめる。
 トロンボーンのダン・バレット(Dan Barrett)も、今最も働き盛りのミュージシャンだ。彼のトロンボーンはストレートで、ソフトで柔らかく、上品で、女性歌手のバックのオブリガードも絶妙である。「MOON SONG : Dan Barrett and his Extra-Celestials」(Arbors ARCD 19158,95年録音)[写真29]は、彼の好みが良くでたスインギーな名演集で、女性歌手レベッカ・キルゴアの唄も最高である。
 ピアノのジョニー・ヴァロー(Johnny Varro)は実力派のベテランである。彼は何でもこなすスイング派の名ピアニストだが、ジョン・カービー楽団にも傾倒し、「スイング・セヴン」というコンボを編成して、ジョン・カービー・サウンドを追求している。「Johnny Varro Swing 7」(Arbors ARCD 19138,94年録音)[写真30]は、彼の近年の代表作だと思う。
 ギターの若手ではフランク・ヴィノーラ(Frank Vignola)が素晴らしい。彼はまだ30代の中頃だが、理論、実技共に抜群のミュージシャンで、前途が楽しみだ。
 この様にあげてくると、中堅、若手のスイング系ミュージシャンは意外と多いことがわかる。アメリカの特に白人の社会では、ジャズの中でもスイング・ジャズが最も受け入れられていると言うこともできる。

  

写真25 HOWAED ALDEN + GEORGE VAN EPS :13 Strings(Concord CCD 4464)
写真26 KEN PEPLOWSKI :Last Swing of The Century」(Concord CCD 4864-2)
写真27 HARRY AllEN QUINTET :A Night at Birdland(Nagel Heyer CD007,010)

  

写真28 ALLEN VACHE SWINGTET :Jazz Im Amerika Haus(Nagelheyer CD013)
写真29 DAN BARRETT :Moon Song(Arbors ARCD 19158)
写真30 JOHNNY VARRO SWING 7(Arbors ARCD 19138)

■まとめ
 1990年代のトラッド・ジャズ界を回顧してみたが、今日のメインストリーム・ジャズ・シーンは想像以上に活況を呈している。演奏の素晴らしい作品、話題性のある作品は数百枚に上るだろう。その中から25枚のCDを[付録1]の通り選んでみた。一部のコレクターのように「偉大なジャズメンは皆死んでしまった。ディキシーもスイングも、もう終わりだ!」などとぼやく必要は全くない。感動する演奏がたくさんある。要は我々ファンのジャズへの前向きな取り組み次第であろう。ジャズは昔も今も全く変わっていない。
 今日のトラディショナル・ジャズの隆盛は、1970年代に現れたスコット・ハミルトンによるものが大きいと私は思っている。モダン・ジャズ一辺倒のジャズ界に彗星のごとく現れたハミルトンは、それに続くスイング系ミュージシャンにインパクトを与えた。ケン・ペプロウスキー、ハリー・アレン、ダン・バレット、ランディ・サンキ、ハワード・オールデン、フランク・ヴィノーラなど、期待の中堅、新人がたくさん現れている。
 マイルスやコルトレーンが活躍した60年代までのジャズの流れは、モダン・ジャズがその主流であった。しかし70年代以降はもう一本トラディショナル・ジャズも大きな流れとなって今日に至っている。モダン・ジャズの流れに決して引けを取らない。
 2000年代にも活躍が期待できるミュージシャンを[付録2]の通り列挙してみると、その質、量共に驚かされる。彼らはこれからのトラッド・ジャズ・シーンをリードし、我々ファンに暖かくハートフル演奏を聴かせてくれるに違いない。 アメリカの教育系テレビでは2001年1月からドキュメンタリー作家、ケン・バーンズ製作による長編ジャズ・シリーズ(18時間半)を放映し、全米で1,300万世帯がテレビに釘付けになったという。このダイジェスト版が02年7月から8月にかけNHK教育テレビでも、ドキュメント地球時間「ジャズ」(全6回4時間半)として放映され、残りの後半分(全6回)も年末から03年正月にかけて放映され、ジャズ・ファンの話題になった。
 2000年代もジャズの話題は尽きない。

 付録1 1990年代のトラッド・ジャズCD25選
 

 付録2 2000年代トラッド系ミュージシャン一覧
 

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