BOURBON STREET

Step 34 モダン・ジャズ全盛期にトラッド・ジャズを聴かせた2軒のジャズ喫茶 (1)

柳澤安信 (ODJC会員)

昭和36年(1961年)正月、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズの来日公演をきっかけに、日本全国にモダン・ジャズ・ブームが沸き起こった。それまでのジャズ・シーンは、ユニバーサル映画「グレン・ミラー物語」(1953年アンソニー・マン監督、ジェームス・スチュアート、ジューン・アリスン主演)や「ベニイ・グッドマン物語」(1955年バレンタイン・デイビス監督、スティーブ・アレン、ドナ・リード主演)のヒットにより、スイング・スタイルのジャズが一般庶民にはおなじみで、ジーン・クルーパ、JATP、ルイ・アームストロングの来日公演は、進駐軍やごく一部のジャズ・ファンのためのものであったといってよい。それがアート・ブレイキーの来日によって一変した。強烈なリズムとパワー、黒人独特のブルース・フィーリングを前面に押し出したハード・バップ・スタイルの演奏に、日本人は驚き、それまでジャズ音楽には眼もくれなかった小説家、詩人、知識人、マスコミも「これが本物のジャズだ!」と絶賛、ハード・バップ・ジャズが大流行となった。これは体験したわけではないが、当時銭湯に行くと、湯船で浪曲に代わってメッセンジャーズのヒット曲「モーニン」や「ブルース・マーチ」を唸るお客さんがいたという。東京にはモダン・ジャズを聴かせるジャズ喫茶が何件も開店、それは全国に拡がっていった。若者はモダン・ジャズ喫茶でジャズを聴くのが流行の最先端を行く生活スタイルだった。

しかしそんな環境の中で、モダン・ジャズには目もくれず、それ以前のトラディショナル・ジャズを専門に聴かせるジャズ喫茶が2軒あった。「渋谷スイング」と「水道橋スイング」である。当時このほかにトラッド・ジャズの専門店が他にあるとは聞いたことがなく、おそらく全国でこの2軒だけだったに違いない。

●渋谷スイング

「渋谷スイング」は道玄坂を登って行き、日本楽器の少し手前を右に入った百軒店の路地裏にあった。「オスカー」というモダン・ジャズ喫茶の右隣がテアトル・ハイツで、ちょうどその裏に当たる。店主は宮沢修造氏である。

渋谷スイングと筆者
写真1 渋谷スイングと筆者(昭和35年1月)

宮沢さんは大正4年(1915年)生まれ、日本のジャズ喫茶オーナーの草分けの一人で、昭和26年(1951年)5月、銀座7丁目松坂屋裏の消防署前に、ジャズを専門に聴かせる「銀座スイング」を開いた。そのお店が渋谷へも進出したのは昭和30年(1955年)7月である。当時のスイング・ジャーナル誌には銀座と渋谷の2軒の「スイング」の広告が載っており、銀座の店も昭和32年ごろまで開いていたと思われる。「銀座スイング」はスイングやモダン・ジャズを主流にしていたが、「渋谷スイング」はディキシー専門店である。

高校時代にスイング・ジャーナル誌の広告でこのお店の存在を知っていた私は、昭和33年(1958年)の4月に長野県上田市から上京、一人都会暮らしをしながら「渋谷スイング」へ通うようになった。「渋谷スイング」は8畳ぐらいの大変小さいお店で、入り口右手のカウンター前にはいつも常連が我が物顔に立っていて、ギャングが出入りする密造酒場のような雰囲気だった。勇気を出して店に入り、いつも隅のほうに座って聴いていた。よくリクェストしたのはジョージ・ルイスの「American Music by George Lewis」(AM 639)である。このLPに入っている「波濤を越えて」は、ジョージ・ルイスのレコードの中で、今でも最も好みの演奏である。「Jass at Ohio Union」(Disc Jockey DJL-100)の「世界は日の出を待っている」もよくかかった。

毎日通っているうちに、私のジャズへの情熱がマスターにも通じたらしく、親しく話をするようになり、常連の仲間に入れてもらえるようになった。お店に教科書を置かせてもらい、大学へはスイングから通った。午後の授業が終わるとスイングへ直行、夕食は百軒店や恋文横丁の中華で済まし、またスイングへ戻ってカンバンまで聴くのが日課だった。一杯のコーヒーで一日中粘っていたのだから、今思うと大変非常識な行動だった。宮沢さんは飯山市の出身で私とは同県人のよしみもあったが、他の常連の身勝手にも同様で、誰にも文句を言わない心の豊かな主人だった。

この狭い「スイング」は昭和35年(1960年)の暮れに、同じ百軒店の中の少し道玄坂方面に戻った曲がり角に移転した。店の広さは前の3倍以上50席ぐらいの「新渋谷スイング」になった。ピアノは置いてなかったがライブが出来るスペースである。その開店祝いに常連仲間で門灯を贈った覚えがある。移転後の「旧渋谷スイング」」はモダン・ジャズ喫茶「ありんこ」になった。「新スイング」の斜め向かいには中平穂積氏の「渋谷ディグ」がモダン・ジャズを聴かせていた。同じ百軒店には表道りに、劇場スタイルの配列でスピーカーに向かって聴く「オスカー」、石段を下った道玄坂小路の左手には「デュエット」があり、ディキシーを聴いた後の気分転換に、これらのお店もはしごして、モダン・ジャズも良く聴いたものである。

新渋谷スイングにて
写真2 新渋谷スイングにて 福沢豊氏と筆者(昭和37年頃)

「渋谷スイング」では多くのジャズ・ファンと知り合いになった。まず常連の先輩に田中光彦氏がいる。私も毎日のようにスイングに通った自信はあるが、彼は私以上で、私が行った時には必ず聴きに来ているのには恐れ入った。田中さんは現在仙台の宮城縣護国神社の宮司をされていて、仙台の著名人の一人のようだ。今でも東京のジャズ・イベントで時々顔をあわせることがある。

いつも一緒に聴いていた常連には稲垣誠一、手塚昌宏、福沢豊、林清一、高橋利昭、椙山雄作、小林佳弘らの各氏がいた。特に稲垣さんはクラシック・ジャズからモダン・ジャズまで幅広く聴いていて、われわれの先生役であった。昭和40年ごろ毎晩顔を合わせるこの仲間達で、愛好誌を作って読み合って楽しくやろうと「Jazz Giants」という冊子を作ったこともあった。

「デュエット」の方にはブラインド・ホールド・テストで有名な見富栄一氏や柴田博氏らがたむろしていた。彼らのグループがスイングにやってくると、「モダン・ジャズ・ファンが殴りこみに来た」と我々ディキシ−・ファンは警戒網を敷いた。当時モダン・ジャズ・ファンは肩で風を切って歩き、トラッド・ファンは流行に乗れないダサい存在で、引け目を感じていた。見方によっては、それは現在も同じである。

ミュージシャンでは園田憲一とディキシ−・キングスの初代クラリネット奏者、石川順三氏がいる。石川さんは私より10歳年上だが、スイングで話していると何となく気持ちが通じ合い、その後も交流が続いた。彼はディキシー・キングスを退団すると、昭和42年に自身のバンド「石川順三とリヴァー・サウンズ」を結成、58年にはディズニーランドとも契約したが、気の毒なことに歯を痛めてプロ・ミュージシャンを断念してしまった。その後柏市のタクシー会社に勤務しながら歯の治療とクラリネットの練習に励み、平成8年(1996年)演奏活動を再開した。タクシーの運転手は12年やったという。旧友城英輔氏、井上良(平成21年3月没)氏や下間哲氏を迎えて、柏市の小さなホールで始めたコンサートは平成14年まで続き、タクシー会社の社長が花束を持って駆けつける和やかなイベントだった。石川さんとは平成22年(2010年)5月の「新宿春のジャズ祭り」で思いもかけずお目にかかり、再会を喜び合った。その時車椅子、石川さんはその1年後に亡くなられた。

斉藤隆とディキシ−・デュークスのバンジョー奏者、田川善三氏もよく出入りしていた。田川さんは昭和38年に奥さんを連れて渡米してしまった。西海岸のサン・ホセに住み、バンジョー教師のチャーリー田川として、100名余のバンジョー・バンドを率い、毎年バンジョー・ジュビリーを主催するなど大活躍を続けている。その明るい人柄で日本にもたくさんのファンを持つ。しかしすでに亡くなられてしまったチャーリー田川夫人は、実は「渋谷スイング」の常連で、我々の仲間だったことは全く知られていない。

コマーシャルなジャズとは一線を引く笠井義正氏とは、渋谷時代からの知り合いである。当時私の下宿が田端、笠井さんは京浜東北線一駅先の上中里に住んでいた。笠井さんの家にレコードを聴かせてもらいに行くと、コタツの上に電蓄を置き、ブランズウィックの「フランク・テッシュメイカーとベニー・グッドマン」(日本グラモフォンLPCM-2019)をかけ、「テッシュメイカーのこの情熱を聴け!これがジャズだ」と教えられた。私がビックス・バイダーベックやシカゴ・スタイル・ジャズが好きになったのは、これがきっかけだった。

外山喜雄氏はまだ高校生のトランペッターで、バンク・ジョンソンに深く傾倒していた。田端の下宿に帰ってくると、どこからかジャズが聞こえてくるので不思議に思い、自分の部屋に行くと、何と外山氏がレコードをかけて聴いているではないか。

写真3 渋谷スイング店主宮沢修造氏
写真3 渋谷スイング店主宮沢修造氏 ジャズ批評誌座談会にて(平成10年8月)

田端には当時機関車の操作場があり、彼は操作場の土手に座って、私の大好きなビックス・バイダーベックの「ジャズ・ミー・ブルース」を吹いてくれた。その後外山さんは早稲田大学のニューオリンズ・ジャズ・クラブに進み、昭和43年(1968年)恵子夫人と共にニューオリンズへジャズの武者修行に旅立っていった。

この当時は大学のディキシ−ランド・バンドの活動が活発で、「大学ディキシーランド・ジャズ連盟」(会長杉田憲雄氏)に加盟する各大学のメンバーが沢山聴きに来ていた。「呑者家」の主人で、今や新宿トラッド・ジャズ・フェスティバルを取り仕切るキャナル・ストリート・ジャズ・バンドの永谷正嗣氏は、バイユー・ストンパーズの橘克彦氏といつも二人で聴きに来ていた。「カーゴ・ディックス」というアマチュア・バンドのクラリネット、菅野天津男氏、同じクラリネットで國學院大學の渡部明氏や芝浦工大のリズム・ギター清岡隆二氏とも友達になった。皆トラッド・ジャズのレコードを真剣に聴き込んでいた。

さてこのディキシーの専門店として有名だった「渋谷スイング」は、昭和40年頃にモダン・ジャズ喫茶に衣替えすることになる。トラッド・ジャズが好きな私はこの経営転換によって、だんだん足が遠のくようになり、代わって「水道橋スイング」の方へ足繁く通うようになった。その後「渋谷スイング」は更に宇田川町へ移り、ビデオ機材の普及に伴い、ジャズ・ミュージシャンの演奏場面が鑑賞できる「ビデオ・ジャズ喫茶」に変身していった。

そして平成9年(1997年)12月宮沢修造氏の「スイング」は、銀座に開店してから実に46年間の歴史に幕を閉じた。

平成10年8月ジャズ批評誌の座談会があり、渋谷東急インで久しぶりに宮沢さんにお目にかかった。大変お元気で昔と全く変らず旧交を温めた。座談会でも熱弁を振るっていた。宮沢さんは渋谷を散歩するのが好きで、その後も路上でばったり会うと、近くのうなぎ屋でご馳走になったり、コーヒー・ショップに誘われ雑談したこともあった。平成19年になり、ここしばらく音信がないので電話してみると、90歳を越え車椅子の生活になり、娘さんが自宅で介護しているとのことだった。そして4月の中旬、娘の成子さんから「父が4月13日に92歳で亡くなった」との連絡を頂いた。宮沢修造さんには本当にお世話になった。毎日、毎晩ジャズ喫茶ですごした時代が懐かしい。今はご冥福を祈るのみである。

渋谷スイング広告
写真4 渋谷スイング広告

平成19年3月久し振りに百軒店を歩いてみた。「旧渋谷スイング」はポーカーゲーム場「AGAIN」、ほかに居酒屋 & BAR「Big Hot」とスナック「ぴえろ」の看板があり、3店舗入った遊興場になっている。移転した曲がり角の「新渋谷スイング」は、店の名前がない得体の知れない風俗店になっていた。筋向いの「渋谷DIG」は和食居酒屋「いのもと」、ここは当時のままだ。「オスカー」とテアトル・ハイツの跡地は、4階建ての店舗ビルに変わってしまった。創業昭和26年の印度料理「ムルギー」は、今でも営業を続けていて本当に懐かしい。中華麺店「喜楽」も店舗は建て替えられているが、当時の場所にあり繁盛しているようだ。石段を下っていった道玄坂小路の「デュエット」は、飲食店が並んでいて跡地の特定が難しいが、らーめん専門店「小川」のあたりにあったと思う。懐かしい恋文横丁は再開発工事中で、全く昔の面影はなくなってしまった。表通りの元祖「くじら屋」は駅よりに移り、渋谷109のビル1階で営業していた。渋谷は私にとって、青春時代を過ごしたジャズの街であった。

参考資料

(日本ルイ・アームストロング協会の許諾を頂き、ワンダフルワールド通信NO.69より転載。Step35に続く。)

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