BOURBON STREET

Step 36 アメリカ各地で喝采をあびたODJCのメリケン武者修行

末広光夫・油井正一・小川正雄

名目は姉妹都市の親善使節

油井 先月の「日本ジャズ・ニュース」のトップに報じられたように,ODJC(オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・クラブ)のメリケン武者修行は、寝耳に水の快報でしたね。

ですから皆さんの帰りを手ぐすね引いて待ってたんですよ。ところがヒコ一キから降りてきたのは末広さん一人だけ。他の連中はどうしたんです?

末広 帰りはバラバラなんです。大半はまだアメリカの各地でモテてますが……。

小川 そもそも事のなりゆきをかいつままんできかせて下さい。何がどうしてこうなったのか? というようなところから――。

末広 ODJCというのは大阪のアマチュア・グループで,メンバーは一人だけが関大生、あとの6人は社会人なんです。このうち二人ほどニューオリンズのジョージ・ルイスやジャフェ夫妻(プリザベーション・ホールの持ち主。ジョージ・ルイス一行をひきいて63年来日)と文通を重ねているうちに,ひとつニューオリンズに武者修業にいこうじやないかということになった。今年の3月頃のことです。だけど演奏しにゆくというんではピザ(旅行査証)も下りない。ここがアタマの見せどころで…(笑)。

大阪市とサンフランシスコは姉妹都市ですし,シスコはニューオリンズ・リバイパルの発祥の地(1940年代)でもある,というので姉妹都市を結ぶ親善使節という肩書きをもらったわけ。で,一行8人は準備をととのえ7月6日羽田から日航磯で出発したのです。

小川 その前夜,「11PM」のビワ湖畔からの中継に出演してましたね。

末広 まずサンフランシスコに着陸すると、北力リフォルニア・ジャズ・クラブ会長マーシャル・ピーターソン会長が迎えに出ていて、すぐサンタ・ローザ市で開かれているクラブの例会で,第一声を放ちました。

ジャズ・クラブとは?

油井 ジャズ・クラブというものを説明して下さい。

末広 アメリカではトラッド・ファンとモダン・フアンは画然とわかれていて,このクラブは勿論ディイキシーだけのクラブ。月一回フラミンゴホテルの食堂を借りて実演の例会を開いてるんです。

小川 アメリカではまだジャズは恥ずべきものと考えてる人が多いそうですね。上流階級は聴かないといいますが,客ダネは?

末広光夫
末広光夫氏

末広 全部中産階級……週給150ドルの連中です。週給100ドル以下は共かせぎをやらないと生活が出来ない。その一段上の階級で,年令は30〜50才。ジャズに熱心に耳を傾けているというほどでもなく,完全な社交クラブです。ジャズをサカナに世間話をたのしむといったような。この晩は9時から1時まで,ボブ・ヘルム(cl)のいるベイ・シティ・ジャズ・バンドと交互に演奏しましたが,我々の演奏がはじまると水を打ったよう静かになり、皆びっくり仰天して嵐のような拍手。「シメタ」と思いましたね。メンバーは白人ばかりで,300人は入っていたと思います。

油井 ギャラはもらったの?

末広 それは最初からの話しあいでオール・タダ。ただし食事と宿泊代は先方負担なんです。だけどスケジュールはきびしかった。翌日はシスコのハイ・スクールと日本航空のオフィスでのデモンストレーション,夜は「アースクェーク・マグーン」に出演。これはターク・マーフイ(tb)のフランチャイズです。一夜明けると愈々あこがれのニューオリンズ入り。

思い出のニューオリンズ

末広 ニューオリンズに着いたのは夕方6時半。空港にはオリンピア・ブラス・バンドとオンワード・ブラス・バンドが控えていて我々がタラップを踏むとたちまち音楽の渦……奥田総領事以下領事全員,ニューオリンズ・ジャズ・クラブも会長以下が出迎えている。「レッド・リバァー・ヴァリー」につれてメイン・ロビーに入ると,TVと映画のカメラ数台が廻りはじめ,我々も楽器をとりだす。そこへジョージ・ルイスとルイ・ネルソン(tb)やポール・バーバリン(ds)もかけつけてきて,まさに感動的な一瞬でありました。

小川 どの位滞在したの?

末広 二週間です。プリザベーション・ホール(ジャズ・保存ホール)の庭つづきに,8人で一日10ドルという格安の下宿を借り,毎晩ホールに日参しました。何しろわれわれの旅行は市としても異例の出来事だったので,新開もTVもジャン,ジャン報道する。テレビには三回出ました。だから町を歩いてても見知らぬ人から親しげにこ声をかけられ,マアいい気分でしたが,困ったこともありました。

大体ニューオリンズには「プリザべ−ション・ホール」(ジャフェ夫妻経営。ウイリアム・ラッセル館長)と「ジャズ・クラブ」(デュエル・ブラック会長)があり,この二つは仲がわるいのです。我々はジャッフェ夫妻と話し合ってきたものですから,クラブ側は一歩おくれをとった。そこで強力な巻き返し戦術として,ヘレン・アート(Helen Arlt)という美人秘書を差し向けてきました。ヘレンはジャズにくわしく,独身の美女です。彼女がどんどんいいスケジュールをつくって持ってくる。ヘレンがもってきた話には皆デレーンとしてうけいれてしまうので遂にアラン・ジャフェが怒り出した。「一体きみたちは誰の手引きでここに来たのか!」というんです。でも結局我々は得をしました。ジャフェも負けじと,その昔ジョージ・ルイスが痛む胸を押さえつつ,最初に《パーガンディ・ストリート》を吹きこんだ台所でやろうとか,バンク・ジョンソンと吹きこんだ「サンファシントー・ホール」でやろうとか‥…歴史の再現に我々を使い,ライバル同志で我々の売り出しに火花を散らしたからです。

油井 名誉市民になったんですってね。

末広 ええチューレン大学で300人を前にコンサートを開いた時,ニューオリンズ市長が奥田総領事立会いで名誉市民の証書とカギを一人一人に手渡してくれました。

油井 日本の歌曲も演奏した?

末広 着いて二日目に「プリザペーション・ホール」の創立6周年パーティがあり,その席上で,《さくらさくら》と《浜辺の歌》をやりました。驚いたのは《さくら》の反響です。バンジョーが三味線スタイルで弾く上をトロンボーン・ソロでやったのですが,聴衆の女性が皆ハンカチを目にあてて泣き出すんです。「こんなに悲しくも妙なるしらべはきいたことがないって」‥‥‥。で我々は「マダム殺しの歌」と命名しました。

ニューオリンズ・ジャズの将来は?
油井正一
油井正一氏

油井 末広さんは過去20年ちかくニューオリンズ・ジャズを愛してきたヴェテラン・ジャズ・フアンだが,そのあなたがニューオリンズの空気を吸って感じたジャズの将束といったものを,率直に聴かせてくれませんか?

末広 率直にいうと,現地できいた限り将来性のある音楽だとは思えなかった。プリザべ−ション・ホールでさえ10年後も存続できるかどうかは疑問ですね。

小川 ほう,そりやまたどうして?

末広 若いミュージシャンがいないんです。結局生き残りの老人だけがやってるわけですが,全然進歩がなく,ダラダラやってるだけです。彼らを可愛がっている白人の方も「愛玩動物」のように思っているだげで,積極的に振興しようとも考えず,抜け目なく録音をとって儲けてやろうぐらいなことしか考えてません。だからトラディショナル・ジャズのよさはニューオリンズを離れたヨーロッパや日本やアメリカの北部の方がずっと本格的に認識されていますよ。

印象に残ったジャズメン

油井 ニューオリンズから北部へ出たわけですね。その道順を逐一おうかがいする余裕もないので,総括的なことになりますが,ニューオリンズの将来性には失望したけれど,こんなところにこんないいバンドがあったというような発見はありましたか?

末広 ありますね。ミネソタ州のセントポールやミネアポリスで演奏しているホール・ブラザーズなんてのは驚くべき存在ですよ。全員がアマチュアで,皆勤労者です。一人でいろんな楽器をもちかえるし,バンドのスタイルとしてはジェリー・ロール・モートンのレッド・ホットペッパーズなんです。これなどは是非日本に呼びたいグループですね。

それからニューオリンズで最も感心したのはビリーとデディのピアース夫妻でした。これなども日本に呼びたいですね。夫妻の家でガンボをごちそうになったけど,これはいただけなかった。

油井 ガンボってどんな料理?

末広 カニ,ソーセージ,サカナ,鳥をシチューのように煮こんだスープで,底にゴハンが沈んでいる。

油井 うまそうじやないの。

末広 ええ味そのものは悪くないんです。ところがピアース夫妻の家というのが貧民街の掘っ立て小屋で,不潔ムードがいっぱい。とてもノドに通るような雰囲気ではなかった。(笑)

貴重な資料スイング・ジャーナル

末広 カナダのトロントにまで足をのぼしましたが,これは収獲でした。アメリカとちがってモダンとディキシーとが対立していないんです。ジャズなら何でもきくという態度で皆すごくくわしい。油井さんはジョン・ノリスという人知ってますか?

油井 知らないね。

末広 向うでは知ってましたよ。このノリス氏がジャズ・クラブの会長なんです。彼の部屋にはスイング・ジャーナルからジョージ・ルイス日本公演のプログラム,労音のポスターまである。自分でも「ジャズ・コーダ」という雑誌を出してるんです。

油井 へえスイング・ジャーナルがあるのかい?

末広 珍らしくはないです。さっきお話したチューレン大学のジャズ書庫にはジャーナルが全号揃って保管されていました。

序でに,変り種的な人をお話しますと,日本でも輸入屋さんで珍重されているGHBレコードの社長,ジョージ・バック氏がいます。眼が不自由な人でご当人はコロムビア放送局の編成課に勤務してるんですが大変なトラッド狂でした。

各地のファン・クラブにボス的な人はかなり居ましたが,ロスアンジェルスのビル・ベイシン(Bill Bacin)ほどのひとはまず居ません。この人はニューオリンズ・ジャズ・クラブ・オブ・キャリフォルニアの会長なんです。

この人のスケジュールでロス周辺たとえばディズニーランドの消防五人組との共演とかクラブ例会(規模最大。演奏時間7時間。600人出席)で演奏しました。ワイルド・ビル・デヴィソン,アルトン・パーネル,エド・ガーランドなど白黒スターの出演する中で,我々のバンドも30分2ステージをやり,大喝釆をあびました。この例会には全部ミニチュアの楽器を使うバンドとか,オール女性のディキシー・バンドも現われ,たいへん多彩でした。

エド・サリヴァン・ショウへの勧誘も
小川正雄
小川正雄氏

小川 各地で演奏をきかせたんでしょう? 全部で何度ぐらいやったんですか?

末広 さあ数え切れませんね。ともかく36日間のうちで遊んだ日はほんどなかったですから――。

(ニューヨーク・タイムス紙をとりだして)これはコネチカット州「ホリデイ・イン」に出た時の批評です。

油井 ニューヨーク・タイムスが二段ぬきで扱っている。なるほど大したものだ。オヤこれを書いたのはジョン・S・ウイルソンだ。どんな人だったい。

末広 会った感じでは普通のアメリカ人でしたよ。何故ですか?

油井 ジャズ批評家としては有名だよ。岩浪洋三クラスだろう。

小川 ニューヨークではエディ・コンドンのクラブに出たんですってね?

末広 ええ,小川さんの紹介で蔡垂炳さんが斡旋してくれたんです。ピーナッツ・ハッコーのMCで40分くらいやりまLた。コンドンは大病のあとでだいぶやつれてました。今のコンドンのメンバーは,ノーマン・オートリー(tp),ハッコー(cl),カッテイ・カッショル(tb),レイ・ブライアント(p),ベースがなくてコンドン(g),クリフ・リーマン(ds)というメンバーです。中間派ふうのディキシーですが,お客は音楽に無関心ですね。でも我々の純ニューオリンズ・スタイルになると,ぴっくりして水を打ったように静かになりました。

ニューヨークでは「エド・サリヴァン・ショウ」に出演の勧誘をうけたんですが,リハーサルを含めて2週間たっぷり要るというので日程の都合上おことわりしました。他にディキシーのクラブ「ジミー・ライアンズ」にも遊びに行って,2,3人がシットイン(参加して共演)しました。このドラマーはズテイ・シングルトン。さすがにタイムのいいドラムでした。

小川 ニューオリンズ・ジャズメンは北部でも活躍していますか?

末広 シカゴではエマヌエル・セイルス(bjo)に会ったし,コネチカットではジム・ロビンソン(tb)やキッド・シーク,アルヴィン・アルコーン(tp)に会うというふうで,アメリカもせまいもんですね。ギターのダニー・バーカーにも北部で会いましたが,ニューオリンズに帰ると,「ジャズ博物館」のマネージャーをやっているというふうで,お爺ちゃん連も大いそがしです。

しあわせな旅行

油井 では最後に,この武者修業の総括的な感想をうかがおう。

末広 出発前から緊密な連絡をとっていたため,各地で暖かく迎えられたこと。また演奏をたいへんほめられたことが嬉しかったですね。終始意義のある日を送りました。今ニューオリンズでは,フランス,イギリス,濠州,スエーデンの4か国のミュージシャンが滞在して勉強していましたが,我々の方がはるかに優遇されました。これはジョージ・ルイスの一行が,世界で最も暖かく迎えられ,画期的なコンサート・ツアーをやった日本という国への親愛感も大きなバックになっていたと思います。ツキもあったけどしあわせな旅行でした。

一行氏名

スイング・ジャーナル
スイング・ジャーナル1966年10月号(クリックすると写真がPDFで見られます)より転載

目次へ    Topページへ