BOURBON STREET

Step 4    アンクル奥野の浪速ジャズ四方山話

奥野 博史(ODJC会員)

大阪老人愚痴の垂れ流し、その3。

人があふれ、商業活動が盛んになると、それと表裏をなして歓楽への欲求が強まる。1900年前後のニュ−オリンズと同じである。・・・・道頓堀、千日前、難波新地一円の雑踏の、青い灯、赤い灯のきらめく道という道には、「ジャズ・バンド毎夜演奏」の看板が競うように貼り出され店内では女給の嬌声にまじって、『テル・ミ−』『ティティナ』『ティペラリ−』『ダンス・オリエンタル』『キャラバン』『オ−バ−・ゼア』などが歌い演奏されたのである。
ぼくは、日本ジャズ史上でも特記されるべきこの時代の大阪ジャズを『道頓堀ジャズ』と心の中で命名し、ぼく自身その渦中にあった当時の熱気を今もなつかしんでいる  その最高潮は『道頓堀行進曲』が道頓堀の映画と歌劇の殿堂・松竹座で上演された昭和三年(一九二八年)の初夏だったと思う。・・・しばしば述べたように、当時の道頓堀はジャズのメッカだ。
松竹座オ−ケストラの気鋭のピアニスト・塩尻精八が作曲した主題歌『道頓堀行進曲』(詞・日比繁治郎)は四分の四拍子の行進曲風のなかにシンコペ−ションを用いたジャズ調で、この曲は道頓堀カフェ−で一斉に歌われたものだ。・・・・こうした熱狂の道頓堀ジャズ・エイジは、しかし、長くは続かなかった。水を差したのは、大阪市が公布したダンスホ−ル規制条例である。 (ぼくの音楽人生・服部良一)
 長くなりましたが、道頓堀ジャズエイジの熱狂を当事者が伝える唯一のものとして引用させていただきました、これを残して下さった服部先生のおかげで当時を知ることができて感謝、感激です。いろいろ曲名があります、こういった曲が昭和初期の大阪で聞かれたのです。
 「テル・ミ−」は近年聞きません、「ティティナ」はチャップリンの映画「街の灯」(と思う)にありました。「ダンス・オリエンタル」これはかすかに覚えがある程度、「キャラバン」はご存じ今も演奏される"CARAVAN"、「オ−バ−・ゼア」も近頃聞かない。「ティペラリ−」はもちろん"IT'S A LONG WAY TO TIPPERALLY"、でラスカルズが時々演奏します、第一次世界大戦頃つくられ敵味方を問わず愛唱された、ということです。映画「大いなる幻影」(第一次世界大戦)、「頭上の敵機」「Uボ−ト」(第二次世界大戦)などに入っています。
 「道頓堀行進曲」は十数年前のODJC例会で「大阪のジャズ」を特集したとき取り上げています。そのときにもこれは「ジャズの手法を用いている」と説明された記憶があります このように早くも「ジャズ」を取り入れた先人には脱帽します。1999年、道頓堀中座閉場の際「再現演奏会大正デモクラシ−・主催大阪音楽大学」という音楽会が催され、そのフィナ−レに「道頓堀行進曲」が演奏され、出雲屋の「まむし」と共に昔日の道頓堀が偲ばれて涙でした。
 「道頓堀行進曲」の作詞者・日比繁治郎氏は大阪の郷土誌「上方」に「どうとんぼり昭和新風景」と題して道頓堀にあふれるジャズを。
・・・・二グロのジャズに囃し立てられては・・・付近カフェの進出は蓋し由々しき大敵で、三味線太鼓の二挺に対して、向かうはジャズの亂調子。肌もあらはに押し寄せやうというのだから・・・・(上方・昭和6年)
 道頓堀付近のカフェ進出の勢いは、従来の花街、お茶屋で三味、太鼓の遊興に大敵と書いてはりますが当時すでに「ジャズはニグロ」のものという認識をお持ちとはまことに見識あるお方です。まあ、とにかく大正末頃の道頓堀のにぎわいはたいへんなものだったらしくその様子を。
杉岡宗三郎(注・劇作家)は、松竹座の「春のおどり」を何本か書き、フランスへオペラを見に行くのを一生の念願にしながら戦争中に若くして死んだ。その「春のおどり」に、杉岡が書いた「王麗春」の舞台稽古の夜であった。筆者も見ていた。みじかい休憩時間を、暑さにたまりかねて二人はバルコニ−に出た。午前二時、空はもとより、下界も星をちりばめたように、道頓堀から千日前・坂町・宗右衛門町、まだまだ夜はふけていないのだ。「夜の夜中に、オ−ケストラの音がする。三味線も鳴る。太鼓も鳴る」・・・「注文すればどこからでも料理がとどく。酒は安いし、女は美しい。こんなええとこは、パリにかてあれへんゾ」
(笑説法善寺の人々・長谷川幸延)
 この時期は大正末と書かれてますが道頓堀のにぎわいが手に取るように分かるのでございます。しかし、さしも隆盛を極めた道頓堀ジャズの時代は終わります、その顛末は次回でお伝えしまが、ついでにジャズブ−ム前夜の道頓堀のモダンさを示すお話を一つ。
恰度(ちょうど)この時分(注・大正11年頃)・・・・中座の前の古めかしい芝居茶屋の隣に白亜のセセッション風な酒場を出さした。それが大阪の酒場の始めでCabaret・De・Pannon、旗の酒場と名付けられた。・・・そのころ珍しかったステインドグラスの窓や、天鵞絨(ビロ−ド)の重いリド−、淡紅色の壁面にはビヤズレ−の版畫がかけられ、ピンク色の卓子に黒い椅子、川沿の濃緑のソファ−からは宗右衛門町の灯影と、水に垂れる柳が見られるといふ風な瀟洒な空気が漂っていた。
・・・・明治屋あたりの倉庫に何年も埋もれていた洋酒を掘り出して来て瓶棚に並べ、カクテルやポンチ、或いは風月堂風の香の高いコ−ヒに通なお客を歓ばせてゐた。女ボ−イ(その時分には女給なる言葉はなかった)も上品に行儀よくサ−ビスをして・・・・、(上方・昭7年)
キャバレ−と名乗ってますが、ここは財界人なども集まって一種の倶楽部のようなもの、だったそうです。とてもハイカラ、豪華です。庶民的なキャバレ−の全盛期はこの後すこししてから、そしてエプロン姿の女給の登場です、これがないとカフェ、キャバレ−はさまになりません。さらに、道頓堀の先進性を示すものとしてこんなことも。
 旗の酒場の方では毎年のクリスマスには藝術家達の假装が行われて三越のバンドや、黒人のコ−ラス團などが招かれ・・・・、(上方・昭7年)
その三越のバンドとは。
デパ−トが宣伝用に作った少年ブラス・バンド・・・日本橋三越と大阪三越が最も早く、それぞれ明治42年(1909)の結成。名古屋の松阪屋少年音楽隊が明治44年の発足。大阪高島屋の少年音楽隊の創立は大正12年(1923)。同じ大正12年に、今一つ、大阪に『出雲屋少年音楽隊』というのが誕生している。・・・じつは、かく言うぼくはその『出雲屋少年音楽隊』出身である。
(ぼくの音楽人生・服部良一)
 出雲屋は「まむし」で有名ですが、うなぎ屋までがバンドを持つ時代風潮が大正末期の大阪道頓堀にあった。と服部氏は少年音楽隊時代を懐古して言われます。それにしてもこの時代にクリスマス行事を行い「黒人コ−ラス團」が出演していたとは驚くべきモダンぶりです。 この「黒人コ−ラス團」は詳細不明です。これからしばらくして来た道頓堀最盛期を文人は。
此頃の道頓堀の名物はジャズに映画に安いまむし屋・食満南北(上方、S7年)
と狂歌(ざれ歌)に詠むほどジャズは盛んでした。では今回はこれまで。
(アンクル奥野氏は、ODJC会員奥野博史翁、録音記録でもご活躍です。)

目次へ    Topページへ